今日のブログ、母の68年前の経験、
これを、そのまま、わたしのブログに載せます。

注:読みやすいように、少しだけ、編集しています

・・・

2013年8月10日、読売新聞の夕刊より。。。

空襲で焼けた、
現在の明治通り付近の久留米市街地の様子が、載っている。

母が、その当時住んでいたのは、その福岡県久留米市・・・

以下、母の話し・・・

・・・

我が家は、まさにその明治通りにあった・・・
私は、米軍の空襲下、そこにいた。

あの日も、今日みたいに、
お天気のいい、暑い夏休みの日だった。

1945年8月11日、午前、米軍機150機が襲来・・・

新聞では、
死者212人、
市街地の7割にあたる156.7ヘクタールが被害を受け、
久留米駅も焼失した。とある。

私は、その時、防空壕に入っていたが、
前の家が燃えているという母の声に、飛び出して・・・

まだ幼い弟を乳母車に乗せて、
火の粉を避けるため、乳母車の上に布団をかぶせ、
パニックの母と弟を連れ、
駅の方からの火に追われるように走った。

ただひとり、頼りになる兄は動員・・・
街の男たちは町内のことに駆り出されていた。

途中、艦載機(米軍の飛行機)の、
急降下しながらのパラパラパラと言うような玉の音、
逃げ待とう人々を襲う、銃の音・・・

この音が近づくと、
母と弟の乳母車と共に家のひさしの下に隠れ・・・銃の弾を隠れ・・・

飛行機の遠のく音と共に、われわれは飛び出して逃げた。

このとき、私は見た。
あどけなさの残る米兵の、チューインガムをかみながら銃を撃つ、
操縦かんを握るその顔を・・・

昨日の新聞で初めて212人も亡くなったことを知った。
私の同級生もその一人だった。

小学6年生の仲良しだった。
フルネームで覚えている、おかっぱ頭の可愛い人だった。

この空襲と機銃掃射を、なんとか無事すりぬけ・・・
伯母のいる草野まで歩いた。

暑くて暑くて・・・

途中、大変だったですねえと井戸に冷やしていた麦茶をいただきながら、とにかく、伯母の家を目指して歩いた。

伯母の家が見えた頃、
伯父と伯母が泣きながら、「生きとったかー!」と走ってきた。

68年たって、 今クーラーの中で、こんなことを書いている。

自分の命を大切に考えてきたのだろうかと、
忸怩(じくじ)たる思いです。

・・・

以上、母のブログより、
わたしが聞いてきたことを、少し付け加えて・・・

・・・

今の日本で、こんなこと、思いも及ばない・・・
ただただ、暑い、暑いと言っている、そんな日々・・・

たった、たった、たった68年前、こんなことがあったなんて、
想像もできない。。。